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院長の手は冷たい

掲載日 : 2025/12/02

山東クリニックの院長の手は、冷たいです。

診察の際、私の手が患者様に触れると、その冷たさに驚かれることが時折あります。「手が冷たい人は心が温かい」という説がありますが、実際には、胃カメラや大腸カメラの操作時に指先が動かしにくかったり、電子カルテのタイピングに支障が出たりと、何かと不便を感じるのが正直なところです。

この手の冷たさを、以前はさほど気に留めていませんでしたが、今は少し違います。

冷たい手と、父の熱

先代院長である父は、極めて稀なNK細胞由来の急性白血病で、入院からわずか二週間ほどで他界しました。

この珍しい白血病のことは知識では知っていても、まさか自分の父が罹患するとは想像すらしていませんでした。抗がん剤治療が緊急で開始となり、父とゆっくり話す機会は訪れませんでした。入院後すぐに無菌室に隔離となり、あっという間に血液検査のデータは悪化していったのです。

二回目に面会したとき、父はすでに40度の高熱にうなされ、全身から血が滲むような状態でした。これは、白血病により正常な血液細胞が生み出されなくなったことによる全身機能の破綻によるものです。すべての臓器が異常をきたし、父の意識は既に朦朧としていました。

声を出すことも難しい状態の父を見て、大人になって初めて、その頬にそっと手を触れました。父が絞り出すように「冷たくて気持ちが良い」と言った時の、手の感触と父を蝕む熱が、今でも私の掌に残っています。懸命な治療にもかかわらず、その数日後に父は亡くなり、次に私が東京から広島に駆けつけた時、そっと握った父の手は、私よりも冷たくなっていました。

その日以来、私は自分の冷たい手がさらに苦手になりました。

父のおもかげ

父はきっとどこかに出張でも行っていて、ふらっと帰って来るのではないか。なんとなく、そんな感覚で日々を過ごしていました。しかし先日、父の携帯電話を解約しに行った際、それが幻想であったことを今更ながら実感しました。亡くなる直前にも連絡をくださった方や家族からのメッセージに既読をつけた瞬間、急に父の死が現実味を帯びたのです。

データを確認すると、父が初めてスマートフォンを手にした時に送ったメッセージは、母に対する「あいしてるよ」でした。相変わらずの愛妻家ぶりで、息子としては少し気恥ずかしい反面、誇らしくもあります。

当院の電子カルテには、タイピングが苦手だった父が、一生懸命に「一本指打法」で入力した患者様の情報が蓄積されています。患者様のペットの名前をこっそりメモしていたり、体に合わなかった薬を忘れないよう記録していたり。粗野な態度とは裏腹に細かい事を気にしていた父の診療の軌跡です。

二代目院長である私がカルテの追記を重ねていくうちに、父の面影は徐々に薄れてきてしまいました。いつも診療を静かに支えてくれていた父の存在の証が霞んでいくのは、少し寂しくもあります。

父と息子

父は外科医として仕事に没頭し、高熱で意識が朦朧とした中でも、最期まで患者様の治療をメモするほど、医業に生きた人間でした。父がどうしてこのような病に倒れてしまったのか、いまだに気持ちの整理はついていません。

父とはゆっくり話し合うことはできませんでした。しかし、外科医として癌を切り続けた父の意志は、消化器内科である私のこの冷たい掌に脈々と流れています。もし話せたとしたら、父はきっと、「これからはお前が癌を切り続けろ」と言うに違いありません。

私は病気が嫌いです。特に、私を頼ってくださった大切な患者様や、父を奪っていった癌を心から憎んでいます。

病気は、どんな人にでも平等に訪れる、理不尽な存在です。短い外来の診察時間では、皆様の人生が治療でどう良くなっていったのか、といった素敵なお話を全てお聞かせ頂くことはできません。それでも、私は一人でも多くの方が、理不尽な病で苦しまずに済む世界を心から願っています。

私の手の届く範囲は、とても狭く限定的です。けれど、父が守ろうとしたこの安佐南区緑井の地域から、胃がん、食道がん、大腸がんといった消化器がんを始めとして、ありとあらゆる病気がなくなっていく未来を実現できるよう、これからも私は父の座っていたデスクで仕事をし続けていく覚悟です。

直接私の手に触れる機会はあまりないかと思いますが、もし手が触れることがあれば、その冷たさとともに、この一篇を少しだけ思い出していただければ幸いです。

父もきっと喜びます。

先代院長と現院長

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